英語を喋れるだけではグローバル人材ではない 第42回
2012年 11月 16日
当然のことながら日本の大学でも議論を中心とした授業を行いたいと思った。近頃日本では「ハーバード白熱教室」が話題になったようなので、日本でもアメリカのように議論中心の授業ができると楽しみにしていた。しかし、担当教授に授業方針を相談すると、「無理だからやめた方がいい」と苦笑された。
そうは言っても国際関係論の授業なので、試しにやってみることにした。結果はやはり、なんとか発言をしてもらおうと思っても、ほとんどしてくれなかった。ベンチャービジネス論でも同じことが起こった。ところが授業が終わったらたくさんの生徒たちが個別に質問には来てくれるではないか。なぜ授業中に発言をしてくれないのかと聞くと、「自分だけ発言しているのは格好つけているようで恥ずかしい」、「人前で聞くのが嫌だ」、「空気を乱してはいけない」、「あとで聞けばいい」などという意見が出た。
アメリカでは、学生の頃から議論を前提にした論理的思考を叩き込まれる。例えば、私が大学の英語のクラスでまず教わることは、基本英文を作るときは5つの段落に分かれるということ。1番目は問題提起と自分の立場を明確にする。2段落目から最低3つの自分の立場の理由を挙げる。そして、最後の5段落目で結論をまとめる。このような文章の作り方をEnglish101という英語の初級クラスで徹底的に学んだ。常に自分がYes かNoかの立場を明確にしなければならない。従って、アメリカ人は子供の時から自分の立場を明確にし、それについて議論する習慣がついている。
しかし、アメリカの若者達が常に深い内容の議論を展開しているかといえば、そうとも限らない。授業の中で生徒たちは実にくだらないことを平気で堂々と発言する。それに対して、先生も生徒達も誰も揶揄しない、発言した本人も恥ずかしがらない雰囲気がある。「言ってなんぼ」が美徳化されるアメリカ社会。そういう育ち方をしているアメリカ人に比べて、日本の大学生たちに付け焼刃で議論しろと言っても、無理な話である。
日本は世界的に交渉力が弱いと言われている。今の政治家や官僚たちは日本の教育でのエリートたちだ。議論よりも詰め込み教育。アメリカのように自分で考える論理的思考よりも、暗記中心の教育。本来ゆとり教育は自分で考える力を育むための自由の時間を設けたはずだった。日本でもこれからのグローバル化には交渉力が必要となってくるはずだ。
そもそも日本語は英語のように単純明快な論理的構文になっていない。アメリカに来たばかりの頃は、たとえ英語が分かっても、こちらから話す時に日本語で考えたことをそのまま英訳して言っても伝わらないことが多かった。
先日、都内のインターナショナルスクールに見学に行った。そこでは小学校の低学年から、論理的思考を持つための自分の意見の発表をさせていた。このように日本の教育においても、どこかで議論をすることに慣れる機会があってもいいのではないだろうか。そして英語を学ぶ時は、言葉を理解するツールとしてだけではなく、英語を使っている人々の思考回路や感覚も取り込み、交渉する力にまで踏み込んで欲しいと思う。
初出:月刊「アメリカン★ドリーム」2012年10月号
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板越ジョージ (起業家・ジャーナリスト)
東京・葛飾生まれ。在米25年。高校卒業後、バイク便で留学費
を稼ぎ、単身渡米。サウスカロライナ大学国際政治学部卒業。
在学中にバックパックを背負い世界35カ国を放浪。イスラエル、
ロシア、チェコ、グアテマラにも留学。95年に広告ITASHOAmerica
を創業。7つの会社を経営し、株式公開直前までいったが、9・11の
影響で沈没。多額の借金を背負った。現在は、NYで出版社、
小売・卸店などの会社を営む。米国で起業を目指す人へのコンサル
タントとしても活動中。東京国際アニメフェア実行委員。NPO法人
「JaNet」発起人・相談役。 在NY日本国総領事館海外安全対策
連絡協議会委員。中央大学大学院大学MBA。中央大学政策文化
創業研究所客員研究員。著書に週刊SPA!の3年半の連載をまとめた
「リベンジ人生道場(扶桑社)」や、「グラウンド・ゼロ(扶桑社)」等。
元ジャニーズという異色の経歴を持つ。
by amedorinewyork | 2012-11-16 01:42 | ニューヨーカーの条件