この10年間の異業種交流会のおもいを書いてみました。
2011年 10月 06日
NY異業種交流会100回記念、JaNet会館オープンにあたり
発起人 板越ジョージ
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NY異業種交流会は、「NYで頑張る日本人を応援したい」との
思いをこめて2002年に発足しました。01年に起きた9・11同時多発テロが
きっかけです。
まずはフリーぺーパー「アメリカン★ドリーム」を発刊し、 その後
異業種交流会の開催へと活動を広げていきました。
交流会はクチコミなどで参加者が徐々に増え、6千名以上のメーリング
リストになるほど成長しました。NYにはたくさんの日本人が暮らして
ますが、なかなか知り合うチャンスは少ないものです。
特に異業種の人となると出会う機会は皆無といってもいいでしょう。
こうした「出会いの壁」を取り払う場として、そして有事のときに
助け合える会としたいと思っています。
NYの日系社会は長らく大手企業の駐在員が中心に構成されていました。
そのために、NYにはNY商工会議所、ご年配者が中心の日系人会の団体
がすでに100年以上の歴史を持って存在しています。
しかしここ数年、特にテロ以降NYの日本人の構図も変わってきました。
NYには、日本を飛び出して、どこにも所属せず、自力で起業したり、
フリーランスで活動している日本人が増えています。それにも関わらず、
当時テロに関する日本での報道は、日本企業の駐在員の消息に関する
ことだけでした。
私達、ここで根をおろして必死で頑張っている日本人についての報道
はほとんどありませんでした。そのニューカマーである日本人たち
には、アイデンティティがまだ確立されていない。日系人でもなければ、
いつかは帰国する企業の駐在員でもない。かといって完全なアメリカ人
でもない。ある意味では華僑やユダヤ人に似ているのかもしれません。
そんなNY在住日本人の守られていない部分を守る組織を築きたいと
いう思いが生まれました。
07年には、民間では初となる、在NY日本国総領事館大使公邸での
交流会を行いました。毎月、各界から著名なゲストスピーカーも
集まっています。月例交流会以外にも、会員の相互の親睦のために
起業、経営、健康など、各種セミナーやスポーツやアートイベント
なども行ってまいりました。
私自身も気がつけば今年で在米23年になります。まさかこんなに
長くなるとは思いませんでした。日本では落ちこぼれのレッテルを
貼られた不良少年だった私は、高校卒業後、バイク急便で留学費を
貯めて米国に渡りました。とにかく大学時代は勉強をしました。
大学卒業後は、サウスカロライナの田舎から、大志を抱いて、
NYに渡ったのです。
1年間のサラリーマン生活を経て95年にNYで起業しました。
若さに任せ、勢いと気合だけでビジネスを推し進めたのです。
ネットバブルの追い風に乗り、最年少上場を目指し巨額の投資を集め、
事業は順調に進み、俄かミリオネアを味わいました。
しかし、ネットバブルは崩壊、そして忌まわしいNYを襲った同時多発
テロに止めを刺され夢は終わりました。
巨額の借金を抱えて、従業員も信用も失い、何よりも自分自身である
自信を失いました。生きている意味を感じなくなりました。
今だから言える事ですが、テロ後まもない頃、ソーホーに構えていた
事務所の家賃が払えずにいました。この頃は鬱もあり、寝つきは
悪いが一度寝ると朝なかなか目覚めることができませんでした。
そんな日々が続いていたある朝、社員から一本の電話がきました。
「社長、マーシャルが来て今すぐ、事務所を立ち退けと言われています」。
マーシャルたちは有無を言わせぬ態度で、家賃未納を理由に事務所
の鍵を取り付けなおし、当時十数名いた社員達は強制退去させられ
てしまいました。かろうじて機転を利かせた社員が会社のデータの
バックアップCDを持って出ました。
1時間後、私は社員達と会社の下のコーヒーショップで落ち合ったのです。
社員達の眼差しが私を軽蔑しているように感じて痛かったのを覚え
ています。「これから、どうするんですか」。社員たちに詰め寄られ、
情けないやら悔しいやらで涙すらでませんでした。頭の中は真っ白で、
どうしたらいいかなど考えられないのです。
数日間はビジネスホームレス状態。しかし、なんとかなけ無しの金
でワンルームのアパートを借りることができました。ただ、奇跡的に
保護したデータのバックアップCDは、追い出されたその日にコーヒー
ショップで置き引きにあうという不幸が重なり、この異業種交流会の
10数回の写真など、過去の資料がすべてなくなってしまいました。
この時に強く感じたのは、自分の立場が駐在員や、大手企業、
留学生とは大きく違うということでした。そんな失意のさなか、
とても人を応援できる立場ではない私が、何故か9・11をきっかけに
交流会を開催するようになりました。冗談ではなく、この交流会は
毎回私の送別会だと思って続けていました。
矛盾しているようですが「頑張る日本人を応援する」という名目で
始めた交流会が逆に私を支えていたように思います。毎日のように
夜逃げを考えていた私は、交流会の度に「今回が自分のお別れ会だ」
と思って続けていました。それが今回で百回を数えます。まさに奇跡です。
異国の地でこのような会をコンスタントに継続するのは大変でした。
爆弾事件、大雪などの天災などで人の出足が極端に減ることもあります。
開催する側の私自身も、大事な存在と死別し、涙で目を腫らしサングラス
をかけて参加した時もありました。それでも何があろうと一度も欠かさ
ずに毎月開催することを続けてきたのです。ゴールが何かを描いたわけ
ではなく、続けていけば必ず何かが見えるだろうという思いが私を
動かしていました。
私だけではなく、ほとんどのニューヨーカー達はあの日を境に人生を
転換させられたに違いありません。皆それぞれの心の行く先を模索し、
何かをつかんでいった。やっていることに不安を持たずに、自分を
信じて、先に何があるかは分からないが、ただ無心に今のことを続ける
ことの意外な大切さは、私がつかんだことです。
その後、08年にNPOとして改織し、組織名も新たに「JaNet」とし
スタートしました。この団体の活動の目的は、頑張る日本人を応援する
ことです。そのような彼らの活動の「場」を提供したいと思いました。
そのためには、いつでも皆が気軽に利用できる場である会館が必要だと
痛感しました。現在は、日米を往復しながら東京においても定期的に
交流会を行っています。
あの時の私と今とは何が違うか。それはたくさんの仲間がいることです。
この交流会も50回余は孤軍奮闘で切り盛りして頑張っていました。
しかし、信用できる仲間が増えて今ではこのような会館を持てるよう
なりました。
実はこの会館設立も4年前から計画をしていたのです。しかし、
周りからの賛同を得られずに計画は流れていました。今回も会館設立
基金を集めている矢先に東日本大震災が起こり、東北への復興支援
に奮闘し、会館設立を断念しなくてはならないのかと思う状況に
なりました。しかし仲間の支えがあり、徐々に会館設立資金が集まり、
このようにマンハッタンのど真ん中に会館を構えられるようになったのです。
ここまで、たくさんの方の支援がありました。
返しきれないほどの恩があります。そしてこの10年間頑張ってこれました。
今まで支えてくれた人たちの為にも、これからの世代に力強くバトン
を渡せるよう頑張っていきたいです。
「頑張る人を応援する」をスローガンにこの会が100年、200年と続く
ようにしっかりとした礎を作っていきたいと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
初出 月刊「アメリカン★ドリーム」9月号
by amedorinewyork | 2011-10-06 00:01 | ビジネス・起業